2015年12月20日

文化破壊に戦略利用された「LGBT」

再投稿です

人権を声高に叫ぶ発信元を手繰り寄せると、共産党か左翼思想に辿り着くと言っても過言ではない。
「目的のためには手段を選ばない」のが共産主義の常套手段と言われるが、冷戦後に暴力革命は捨てた。新たな革命の手段は文化破壊であり、目的は既存の家族制度を否定・破壊することにある。
家族から結婚と性を分離させれば家族としての機能を失うが、家族文化は宗教的伝統によって支えられている。
共産党や左翼が個人の人権や決定権を主張しているのは、文化破壊から家庭破壊という明確な狙いがある。

沖縄問題も「自己決定権や人権を蔑にされた」と翁長雄志知事が国連演説までして訴えた。
また来夏の参院選から18歳投票が可能となったが、これも日教組が「子供の権利」を主張して広がった経緯がある。果たして有権者になった高校生と毎日顔を合わせる左翼教師が生徒に思想的影響を一切与えずにいられるのか。
さらに、安保法案にしても、個別であろうと、集団であろうと、「自国の安全を守るのが自衛権であり、国民の命を守る責任」を強調するのは至極当然なはずだが朝日新聞などの左翼メディアに掛ると「戦争できる国」「立憲主義の破壊」だと穿った解釈をして、「群れる側」の民意を捉える。
合計1億人とも言われている大量殺戮を実行した共産党が人権と安全を叫ぶとは、度胸は据わっているがまったく感心もしない。

そして、渋谷区から始まった同性パートナーシップ条例も今後の地方公共団体の動きに注視しなければならない。
渋谷区に早々と追随したのが、都内では中学時代から学生運動で事件を起こした極左の保坂展人区長の世田谷区。また近ごろ保坂区長と同じ「土井チルドレン」と呼ばれた中川智子市長の兵庫県宝塚市が条例制定した。さらに、林文子区長の神奈川県横浜市なども着々と条例化に向けた草分け運動を展開している。
この条例は中々取り扱いが難しく、これに少しでも異を唱えようものなら性的少数者に対する差別、古い価値観に縛られた権威主義者などと雨霰の猛攻撃を受けるため、保守系の政治家たちも慎重にならざるを得ないのが実情だ。

冷戦の敗北により、レーニン・スターリンの主導した暴力革命は共産主義社会実現のための手段としては間違いだったと認め、外面(そとづら)はソフト路線に変え、長期戦略としての文化破壊を目標とする文化共産主義へと戦略を変えた。

その文化破壊は上から押し付けて実現できるものではないので、文化を支えている様々な制度を転換させる必要がある。そのためには、芸術、演劇、教育、新聞や雑誌などの媒介を用いることを基本戦略にせよと主張したのはイタリアの思想主義者アントニオ・グラムシだ。

また、家族制度の破壊こそ文化破壊の手段であり、その推進には性欲望が組織的暴力やテロ以上の力を発揮すると着目し、既存の家族倫理や一夫一婦制からの解放を繰り返し主張したのがハンガリーのジェルジ・ルカーチだ。
このルカーチが基点となってドイツ共産党員らがフランクフルトに「マルクス思想研究所」を創設し、後に「フランクフルト学派」と呼ばれる思想グループとなり、彼らの研究が土台となって1960年代の米国「性革命」に決定的な影響を与えることになる。
彼らは、西洋人がキリスト教精神を捨てるためには、「忍耐強く文化を支配すれば、国家は労せず崩壊する」と主張した。さらに、徹底してキリスト教を基礎に形成された西洋文化体制を批判した。
彼らは、こうして人種差別、性差別、同性愛嫌い、そして反ユダヤやファシズムの容認はすべて西洋文化にあると断罪したのである。
実際、当初キリスト教国家は同性婚に強く異を唱えた。しかし、その同性愛者への非寛容さが仇となり過激な権利獲得運動を生むことになった。
その運動を取りまとめ「憲法」体制の変化まで戦略的に持続させたのが、他ならない文化共産主義だ。
結局キリスト教国家は贖罪のような形で、2000年以降今日までオランダから始まり、21ヶ国のキリスト教国家ばかりが同性婚合法化を決定した。

文化革命の「被害者」はもちろん労働者ではない。性的少数者やフェミニスト等こそ新たな「プロレタリアート」であり、この性的少数者の人権を声高に連呼し、人心の同調を獲得している。このように長期戦略で文化革命、既存の家族制度の解体が、進められようとしている。
そしてこの新たな「プロレタリアート」の武器はハンマーと鎌ではない。ピルとコンドーム、セックスとドラッグなのだという快楽原理を主張したのがフランクフルト学派の中心的人物であるドイツのヘルベルト・マルクーゼだ。彼は家族制度の崩壊こそが性差別と社会不正の温床であるとし、「戦争よりもセックスを」と呼びかけた。

性差別を無くしたい、誰もが平等という主張は、共産主義の本音ではない。共産主義社会実現の目的のために「LGBT」は利用されているに過ぎない。
冷戦時にソ連・共産党は、アメリカ・キリスト教国家に敗北したが、キリスト教国家陣営に共産主義が浸透しなかった背景には、家族文化があったからだ。その家族文化には、キリスト教精神が根差していた。だから戦略として家族制度を変えなければいけないこととなった。

このように「LGBT」は文化革命に欠かせない武器として利用されている。

既存の家庭制度を現代に合わないとして否定し、夫婦別姓、事実婚、同性婚、多様性、第三の性などを周囲が温かく手を差し伸べるという価値観が既に「文化」へと変わり始めているのだ。
それは、元NHKアナウンサー下重暁子が自身の家族に対する怨恨感情(ルサンチマン)を延々と述べて、家族解体論を披歴するという文学作品とは到底言えない「家族という病」がベストセラーになったことからも窺い知れる。今や下重氏は「おひとりさま」思想の広告塔のような存在だ。

世界人権宣言第16条3項には「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位であって、社会及び国家の保護を受ける権利を有する」とある。

同性婚家族の存在を否定しないが、「LGBT」や同性婚家族を利用する共産主義の存在は否定する。
多様性の容認や、優しい社会を作ろうなどと言ったスローガンの裏にある「文化革命」に頑として手を貸してはいけない。

また、それと同時並行に、普遍的価値観、倫理・道徳、家庭の見直しと再建に手を加えるべきだ。同性婚家族を「自然且つ基礎的単位」と位置付けることにも無理があるにも拘らず、そこを強引にこじ開けて性差別だ、不平等だと無理を通すことは、既存の「自然且つ基礎的単位」の思想信条をもっている者への自由が脅かされるという「逆差別」が起きている事も決して忘れてはいけない。

文化革命推進派は既存の家族制度は独裁制の根源、性差別と社会不正の温床だという。彼らの策動を阻止し、克服するためにも、家庭の価値を再認識し、再構築する啓蒙と努力がより一層肝要だ。


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2015年10月15日

検証の前にあるもの

宇宙や生物の誕生は偶然の産物か?
それとも神による必然の創造か?

ニッポンは学校教育やNHKなどのメディアによって進化論の独擅場だが、アメリカでは進化論者(ダーウィニスト)とキリスト教原理主義者(ファンダメンタリスト)による創造論者の論争が泥沼化している。

進化論者の最大の動機には、30数億年前に現れた単細胞生物から進化して我々は誕生したという主張がある。
一方、創造論者の最大の動機には、神により我々は誕生したという主張がある。

生物の進化か?設計者(神)による創造か?

進化論(ダーウィニズム)には、「偶然による突然変異」と「適者生存の必然による自然選択(淘汰)」がある。
創造論者がこのような話を聞きつけると「偶然の誕生や進化はない」と即座に「神による(必然の)創造だ」と反論する。

突然変異も荒唐無稽だが、聖書を根拠に6日で一挙に神が創造したという主張も負けてない。

さて、生物の本質は変わらないことにある。
そのため生物にとって種内変異を超えた変化は異常であり、ただの奇形として排除される運命にある。
この奇形を排除して、
種を守ろうとすることを負の自然選択といい、
種を超えて進化させようとすることを正の自然選択というそうだ。
実際には後者は幻想に過ぎなかったことが集団遺伝学者の故木村資生(もとお)氏によって証明済だ。

さらに、進化論の「適者生存の必然による自然選択」も全くの説得力を持たなくなった。
その実例は無数にあるが、わたしが丁度夏休みに家族と上野科学博物館で『生命大躍進』を見に行ったことから例を挙げれば、デボン紀後期の3億6500万年前のアカントステガという両生類の肢と人間の手の骨格が似ているというのがある。
両生類だから肢として機能していても何の不思議でもないと思ってしまいそうだが、実はアカントステガは陸には上がれない、肢が使えない最古に近い両生類のようだ。ちなみに諸説色々だが最初に陸に這い上がって四肢歩行したのがイクチオステガと言われている。
肢としてまだ機能もしていない骨格から人間の手の原型が現れたことをみても、そこに自然選択の働く余地はなく、要不要で環境に適応するために進化したとは言えないことが「進化発生生物学(エボデボ革命)」によって証明されている。

こうなると現象のみで見れば必然の進化ではなく、ただの偶然の変化と見た方が良さそうだ。

しかし、これらが証明されたとしても進化論者の考えは変わらない。

それは、以下のような創造論の問題点も大きいからだ。

神は全知全能の支配者なのだからいちいち物理法則ごときに縛られては神の権威に関わるとして、万能の神だと言って顔パスよろしく科学にズカズカ上り込み、説明困難なことは全て「これは神の御業です」と安易に片付けてしまう。
この科学的思考を無視し、神によって全ての未来をも決定できるという強硬な態度が、進化論との和解を不可能にしてしまった元凶とも言える。

さらに、中世教会は、信者の救済はそっちのけで、信者を管理・支配するために教会の権威を絶対視させることに心血を注いだ。
その結果、歪んだ神観として「神とイエスの偶像崇拝」の権威を確立することとなった。

教会側は、盲目的に従って天国行くか、背いて異端となり地獄に行くかを「自由に」選ばせたという。
しかし、これは頭に銃口を突き付けて「おとなしく金を出して助かるか、逆らって死にたいか自由に選ばしてやる」というのによく似ている。
なのでこれは、ただの脅迫であり、自由とはいえない。

結局、信者の顔から笑顔が消え、報酬を必要としない純粋で喜びに満ちた自発的な善行も消え失せた。
かくしてただ従うだけの信者の顔から笑顔が消え、天国生きのチケットという報酬だけがギリギリの心の支えとなった。

この封建的かつ支配被支配の階層性組織の教会に反発して誕生したのが無神論者であり、さらにそこから共産主義思想へと変容を遂げた。

結局、創造論は権威ある万能の神を、進化論は自然選択・自然法則の科学万能主義を神に変わる権威とした。
かくして双方が権威主義的体質を内包した歪んだ神観を持つことになった。

繰り返すが、進化論は科学ではなく、中世の人間救済より教会権威の神観に反旗を翻した違った形の神観であり、キリスト教に対する仕返しのような信仰に他ならない。

何でもそうだが利害を優先すると本質まで歪んでしまうのは誠に残念だ。

人の目、殊に影響力の強い者が目先の利益に眩み、信条を破ってしまうと悲しいことに神ご自身まで歪んで見え、且つそのことに疑問を持つこともなく、そのまま周囲へ拡散させてしまう。

このように、創造論と進化論はそれぞれ神と科学の呼称の違いはあれど、双方に絶対的な権限と権威を持たせることにより、創造論者は進んで神の奴隷となり、進化論者は「人は猿から進化した」と言ってこちらも進んで猿を先祖に祀った。

さらに、いま進化論の発想の流れとして以下のことを危惧する。

精神や心は脳の働き→なので精神は物質から作れる→人工知能開発→人工知能は人間をアシストし快適な生活に欠かせない存在→さらに人工知能の技術向上させアシスト以上の存在にさせる・・・

現実として、ソフトバンクのpepperが人間とコミュニケーションを交わせたり、コンピュータが将棋のプロ棋士に勝ったり、アイフォンの音声アシスタントのsiriが人間に変わって操作をしてくれたりするのは、ぎこちなさや見た目にも癒されて可愛げがある。

さらに、実生活の中にも、歩行アシスト、義手・義足もかなり本物らしく繊細な動きになったし、その他重い積荷をアシストするなど我々の実生活にロボットは欠かせない存在となっている。

果たして、人工知能はどこまで延びるのか?延ばして良いのか?

人間の特徴は、間違える、忘れる、不正を犯す、意欲(モチベーション)により処理速度が変動する。
しかし、コンピュータは故障しない限り、間違えない、忘れない、不正という概念を持たずプログラム通り処理する、(意欲は無いが)処理速度は一定である。

これだけみると、近い将来人間は、誰を信頼し、誰に権利を与え、誰に権威を持たせたがるだろう?

科学的な判断や決定、ここで言えば人工知能に対する浸透と信頼が着実に高まっていると言えないか?

創造論と重ねて考えれば、まさに人間の未来は、神により、科学により決定されると言わんばかりである。

近未来では、コンピュータが人間以上の知性を持ち、予測可能なのだから、人間はただ人工知能の決定する計画通りに行動することを義務付けられるてしまうような、まるでどこかのSF映画の世界が実現すると信じてしまっても無理はない。

しかし、このような科学的決定に対する信頼が高まれば高まるほど、人間の出す判断や決定を軽視、黙殺されるのは当然の流れとなるだろう。

さらに人工知能開発が特定の企業ないし政府に独占されてしまえば、人類の支配を目論む無法者が絶対に出現しないと誰が断言できよう。
となると、正しい神観の確立が必須かつ急務となるはずだ。

人間は失敗も多いが、自由に考え、選択し、行動する。
人間以外の生物には、生き方に関わるような倫理的自由がないため疑問を持たなければ、失敗もない。

人間には、倫理的自由が与えられており、その自由の前には神もサタンも人間の決定には手を出せない。

自由により人間は、神と人格的交流が可能であり、且つ他のすべての万物万象世界に対する主導権を得た。
権利が与えられるとは、そこには必ず果たすべき義務責任が伴うため、勝手気ままというのとは別物だ。

現象だけ見ては進化か、変化かに注目しやすいが、「設計者(神)による段階的展開」となれば、そこに動機や意図を求めやすくなる。

先に直感的に答えが与えられ、その検証を研究し真理を解き明かすようなことを「真理の超越性」というが、宇宙の誕生にもこれが当てはまるのだと信じている。

これこそ、なぜ宇宙が存在していることに相応しく、我々が美しい水の惑星に住み、人間だけが今に満足せず生きる意味を探し、そして第一原因、第一存在を認識したい心に溢れている等々に対して、感動的で魅力ある直感からくる回答を見つけ、それを心を躍らせながら検証することができるならば、どんなに研究が楽しくあり捗るだろう。

実際、検証しなくては、鑑定しなくては信じられないなんていうことは、人生でそう多くはない。
そこに直感や実感が先にあって、検証をする必要を感じていないからではないか。

こう考えれば、人間は内的な、精神的な、言うなれば霊的なものを主軸にして生きている。

人間はサルからの進化だ、全ては偶然の産物だ・・・ではそれを検証する意欲どころか、生きる意欲も失いそうだ。
そこには、何の感動も魅力もない、直観として拒絶している。

「設計者(神)による段階的展開」

設計者の動機と意図を純真に真摯に尋ね求め、心静かに直感を得ようではないか。


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2015年09月20日

夫婦の愛を水平に

言わずもがな、親は子供を愛したいと思っており、子供は親から愛を受けたいと思っている。

しかし、実際に父親や母親が子供を愛した(と思っている)行為が、子供には不安や緊張、または心配として伝わるケースもままある。

それは、親である父と母が対立し、お互いに葛藤し、いがみ合っているケースだ。

自立前の子供にとって親は自分の生き死に関わる絶対的な存在である。
そんな存在である父と母の間に流れる不穏な空気を感じ取ることなど子供にとって造作もないだろう。

ですから対立した状態のまま父は父なりに、母は母なりに子供を愛する(と錯覚している)行為は、子供にしてみれば親のケンカに突如引き入れられることになり・・・

母からプレゼントを貰おうものなら、父が葛藤し、
父と食事にでも出かけようものなら、母が嫉妬する。

このそれぞれの突き刺すような視線を感じつつ「受け入れることも、拒否することもできない」究極の選択を迫られるというおぞましい苦しみを味わうことになる。

くわばらくわばら・・・

家族は夫婦から始まる。
家族が増えても家庭の中心は夫婦である。
だからこそ、夫は妻に対し、妻は夫に対しへつらうことも蔑(さげす)むことも無く信頼し尊敬することが肝要であり、その夫婦の位置関係は水平とも言える。

そして、愛は直短距離の垂直に降りてくるのなら、水平であれば子供は親からの愛情をふんだんに受けることができる。
しかし、上述のような対立している状態は傾いでいるため、愛情(らしきもの)が斜めに流れているようなものだ。

ここで明言するが対立している夫婦の双方からの子供への行為は、愛ではない。

夫であれば、妻への腹いせだったり、自分への気晴らし・・・
妻であれば、夫へのあて付けだったり、自分への励まし・慰め・・・

そんなものを、受けて育った子供が健全に育つはずがない。

まずは、夫婦が信頼と尊敬を取り戻すことが先決だ。
それを、なおざりにして子供に向かうのは不健全極まりない。

自戒の念を込めてここに記す。
皆様のご意見もお待ちしております。

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