2014年12月01日

ほんたうのさいはひは一體何だらう?

「みんなの本当のさいわいのためにどこまでも一緒に行こう」

「おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだろうか。ぼくはわからない。けれども、誰だって、ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸せなんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思う。」

これは宮沢賢治作の『銀河鉄道の夜』の中で主人公ジョバンニと親友のカムパネルラが銀河旅行の旅路でそれぞれ違った場面で二人が語った言葉だ。

順に私なりの解釈を加えると、ジョバンニとカムパネルラの二人が旅路で乗り合わせた少女の「さそり座の話し」を聴き、命を掛けて役に立つことの大切さに心を打たれ「本当のさいわいのためにどこまでも(カムパネルラと)一緒に行こう」とジョバンニが語った。

次は少々複雑になっており、この摩訶不思議な旅行自体の深層に密接な関係を持たせている。
二人は親友ではあったが、家庭内に複雑な事情を持ち貧困なジョバンニはザネリという意地悪なクラスメイトを筆頭としてからからかわれており、カムパネルラは何もできぬままザネリのグループに引き入れられていた。
そして、ある日の夕刻、ザネリ達からからかわれた後に草むらに寝転がって星を見ている最中に疲れて寝てしまい、さらに丁度同時刻に川に落ちて溺れているザネリをカムパネルラが救助したものの、そのまま彼は川で力尽きてしまった・・・。

この銀河鉄道の夜の旅は、寝ている最中のジョバンニと死の間際を彷徨っているカムパネルラの二人が実際は数分の旅だったのだろう。

それを踏まえて先ほどの
「おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだろうか。ぼくはわからない。けれども、誰だって、ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸せなんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思う。」
を見直して頂くと以下のような感じだと思う。

親より先に死んだぼくを母はゆるしてくれるだろうか?けれども、ほんとうにいいことのために命を掛けたのだから、ぼくは幸せなんだ。だから、きっと母はぼくを理解してくれて、ゆるしてくれると思う。
きっとカムパネルラは、仲間外れにされているジョバンニをただ見ていることしかできなかった自分を嫌悪し、責めていたのだろう。
そんな負債感に苛まれる中で、ほんとうの正義のために命を掛けられたことに、カムパネルラは久しぶりに胸を張れたのかも知れない。


ほんたうのさいはひは一體何だらう?

宮沢賢治は何だと言いたかったのか・・・・。
皆さんはどのように思われますか?



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posted by 桃缶 at 17:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月17日

関係性の根本解決とは?

希望通りに入社したにもかかわらず、退職する理由として、たとえ仕事内容が気に入っていても、上司や同僚との関係を苦にしていることがベスト3位以内に入ります。

人間関係の円滑さは、親密な関係と言えます。
その親密な人間関係を築く上の大前提として、「自分は自分」という自己肯定感が必要です。

その「自分は自分」とは、どういう意味か?

自己肯定感のある人は、親密な関係を相手に求めた時に、たとえ相手がそれを拒否しても別段相手を恨むことなく距離がおけます。
また、自己肯定感のある人は、上下関係のない対等な人間関係を結べる人でもあります。

ここで言う「自分は自分」とは、互いに自律した関係であり、相手のこころのお世話や、問題によって引き合っていない、寄り掛かっていない関係です。もちろん弱みなど握られていない関係です。

もし、あなたが相手の問題に必要以上に介入したくなったり、あなたの手助けが必要のない自律している人と一緒にいるとなんだか落ち着かないという経験がおありでしたら、それは親密な関係を築いているとは言えません。

その状態は心理学でいうと、適切な高さで自己を評価できない「自己愛の障害」、そして相手の世話を焼いたり、相手に頼りにされることで自分の存在を認めさせようとする「否定的コントロール」の症状行動の可能性があります。

そのような状態にある方を「共依存症者」と言います。

もし、あなたがその症状に合致していても気落ちしないで下さい。

なぜなら、この症状は、「生きにくさ」であって、病気ではないからです。
そして、きちんと解決する方法もあります。


次に、もうひとつ、「否定的コントロール」についてお話します。
あなたがもし自己肯定感の低いままであれば、相手からこころを傷つけられることを恐れ、傷つけられないためにとる行動とは何だと思いますか?

そのひとつに、決してあなたのプライドを傷つける恐れのないペットなどの存在を自分の傍に置くというのがあります。

時折、猫や犬を何十匹も飼っているニュースを耳にします。
それは、もしかしたら動植物を愛しているというよりは、動植物によって癒しを受け、愛されているケースが多いかもしれません。

本来、人間は動植物を愛で持って管理する主体の立場です。
「この子だけは私の味方」「この子ったら私がいないとダメなのよ」・・・・・。
対等な人間関係を築けないと、動植物との関係のみで自己のプライドを守ろうとします。


イエス様は、「わたしと父とは一つである」。ヨハネ10:30と仰いました。

動植物のこじれは、人間関係にあるようですが、その根本の関係のこじれは、どうやら
神様との関係にあるようです。

神様との関係の回復こそ、全ての関係の改善回復になるとイエス様が示唆しているように感じます。




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posted by 桃缶 at 17:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月09日

感謝と満足

愛する子どもが父母の前で死んで行くとすれば、誰が不憫でしょうか。

もちろん、父母よりも先に死んでしまう子どもは不憫ですが、その子どもを見つめる父母はもっと不憫です。

けれども、死に直面している子どもが、
現実に押し潰されそうな状態の中にあったとしても、
自分以上に自分が死んだことに悲しみと苦痛を感じる父母がいることを知って、
何らかの形で父母を慰労するメッセージを残そうとしたとするならば・・・・・・。


その子どもの行為は、結果的に父母と子どもの両方を慰労するのだと思います。


父母と共にあった人生が、
父母の子どもとして生きたことが、
最高の喜びであり、感謝だったことを回想する中で

子どもの心の中にあった不安や恐れは、いつしか慰労され愛情へと変わり・・・・・・。


底の見えない悲しみの沼地に沈みゆく悲惨な父母の心は、
子どもの労わりのメッセージによって、
父母へ希望と慰労のロープを投じます。


全てを感謝し、満足する心は、悪魔サタンとて断ち切られるのだと信じます。




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posted by 桃缶 at 09:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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