2015年09月20日

夫婦の愛を水平に

言わずもがな、親は子供を愛したいと思っており、子供は親から愛を受けたいと思っている。

しかし、実際に父親や母親が子供を愛した(と思っている)行為が、子供には不安や緊張、または心配として伝わるケースもままある。

それは、親である父と母が対立し、お互いに葛藤し、いがみ合っているケースだ。

自立前の子供にとって親は自分の生き死に関わる絶対的な存在である。
そんな存在である父と母の間に流れる不穏な空気を感じ取ることなど子供にとって造作もないだろう。

ですから対立した状態のまま父は父なりに、母は母なりに子供を愛する(と錯覚している)行為は、子供にしてみれば親のケンカに突如引き入れられることになり・・・

母からプレゼントを貰おうものなら、父が葛藤し、
父と食事にでも出かけようものなら、母が嫉妬する。

このそれぞれの突き刺すような視線を感じつつ「受け入れることも、拒否することもできない」究極の選択を迫られるというおぞましい苦しみを味わうことになる。

くわばらくわばら・・・

家族は夫婦から始まる。
家族が増えても家庭の中心は夫婦である。
だからこそ、夫は妻に対し、妻は夫に対しへつらうことも蔑(さげす)むことも無く信頼し尊敬することが肝要であり、その夫婦の位置関係は水平とも言える。

そして、愛は直短距離の垂直に降りてくるのなら、水平であれば子供は親からの愛情をふんだんに受けることができる。
しかし、上述のような対立している状態は傾いでいるため、愛情(らしきもの)が斜めに流れているようなものだ。

ここで明言するが対立している夫婦の双方からの子供への行為は、愛ではない。

夫であれば、妻への腹いせだったり、自分への気晴らし・・・
妻であれば、夫へのあて付けだったり、自分への励まし・慰め・・・

そんなものを、受けて育った子供が健全に育つはずがない。

まずは、夫婦が信頼と尊敬を取り戻すことが先決だ。
それを、なおざりにして子供に向かうのは不健全極まりない。

自戒の念を込めてここに記す。
皆様のご意見もお待ちしております。

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2015年06月28日

「出来事」を「きっかけ」に

人生の転機は、生きていると何度か遭遇する。

学生では、進級・進学・卒業など
社会では、就職・人事異動・リストラ・転職・退職など
生活内では、結婚・出産・家族の死などの「出来事」だ。

事前に時期が決まっていることは別として、この「出来事」に遭遇すると、私も含め多くの人は

「えっそんな急に・・・」

「いや〜突然で驚きました」

などと思いやすく、言いやすい。

しかし、実際に人生の中で突然ではない「出来事」の方が少ない。

私は、自分の計画の範疇外の「出来事」を、神様から与えられたものだと信じるようにしている。

もちろん望まない、考えたくもない「出来事」もあるはずだ。しかし、それを神様から与えられたという視点や心がなければ、「出来事」が怒りと怨みの火種になる可能性が大きいだろう。
とにかく、私は人生で起こる「出来事」は全て神様が与えてくれたと信じると決めている。


そしてさらに、「出来事」それ自体が人生の転機に直結する訳でもない。
結局「出来事」を通して、自分の心の中に「出来事(きっかけ)」を起こさない限り、「出来事」は目の前をただ素通りするだけだ。なので「出来事」の大小は関係ない。

さてと・・・
私はこのたび、人事の辞令を受け、10年お世話になった拠点を後にする。
これも神様から与えられた「出来事」なので、人事を天事と受け止め、喜んで出立しよう!
そして、お世話になった恩を次の拠点と神様にお返しできるように努力したい。

みなさま、今まで本当にお世話になりました。
ありがとうございました。

では・・・・・またお会いしましょう!


道ばたに御言がまかれたとは、こういう人たちのことである。すなわち、御言を聞くと、すぐにサタンがきて、彼らの中にまかれた御言を、奪って行くのである。同じように、石地にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞くと、すぐに喜んで受けるが、自分の中に根がないので、しばらく続くだけである。そののち、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。また、いばらの中にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞くが、世の心づかいと、富の惑わしと、その他いろいろな欲とがはいってきて、御言をふさぐので、実を結ばなくなる。また、良い地にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞いて受けいれ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶのである」。マルコ4:15〜20

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2015年05月22日

良心の呵責(上)

今回のテーマによって性善説の一助になれば望外の幸せだ。

良心の呵責の同義語には、罪の意識や自責の念や後ろめたい気持ちなどがある。

この罪の意識や罪悪感などの「罪」の種類には、実際の犯罪はもとより、「自分で自分が許せない」といった法には抵触しないもの、さらに言えば行動すらしていない心の動きまでも含まれる。
つまり、良心の呵責を感じたか否かのジャッジはどこまでも自分次第、それこそ良心という訳だ。

ジャッジが自分に委ねられている以上、そのジャッジの良心ゾーンも千差万別ということになる。
あえて極端な例を挙げれば、強盗殺人などの凶悪犯罪者と一瞬の殺意を感じた者の罪意識を、単純に事の大小で判別できない。

ここに罪の許し・贖罪の難しさがあるのではないか。

ある囚人が服役することによって、本当に悔悟の情によって更生したとは言い切れない。
さらに言ってしまえば、囚人が天地神明に誓って悔悟の情をもったとしても、それで清々しく人生を再出発することに違和感がある。
何故ならその囚人の犯した罪が殺人であれば、最低でも遺族が許すと言ってくれるまでは、出所後であっても遺族の感情と無関係に勝手に許されてはいけないからだ。

神仏を信じる者が犯罪に手を染めることも決して珍しくないが、その場合は神仏による許しも必要になるはずだ。しかし、神仏に対しても同様に自分次第のジャッジが付きまとうためこれもなかなか厄介だろう。ここも慎重に扱わないといともたやすく神仏に許されてしまう輩も古今東西あとを絶たない。

以前許しについて長く書いたことがあるが、許す側に許す権利があり、許される側は勝手に許されてはいけないのが基本だろう。但し、凶悪犯罪などは別として、日常生活の関係で許さないと言い張ってばかりいると、「相手だけが悪く、自分は一つも間違っていない」という心が膨れ上がるばかりだし、特にその関係が夫婦や親子などなら、百害あって一利なしだ。

いつの間にか許しの話しになってしまったが、私自身の許しの見解を明確にしないと良心の呵責についてもピントが合わないため、ご了承願いたい。

また良心の呵責を本音と建前という視点で言えば、良心はどこまでも本音に該当し、偽らざる正直な気持ちだ。
ここで「偽らざる正直な」と表現したが、あくまでも自分に正直な気持ちであって、中には周囲から共感してもらえない正直さだってある。
結局、「偽らざる正直な」ということも、前述した自分次第のジャッジということになる。


さてこんな展開をすると良心の呵責など何の役にも立たない、いい加減なものと思いたくなるが、実はそうではない。
何故なら・・・・

結論は次回。


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