2015年10月15日

検証の前にあるもの

宇宙や生物の誕生は偶然の産物か?
それとも神による必然の創造か?

ニッポンは学校教育やNHKなどのメディアによって進化論の独擅場だが、アメリカでは進化論者(ダーウィニスト)とキリスト教原理主義者(ファンダメンタリスト)による創造論者の論争が泥沼化している。

進化論者の最大の動機には、30数億年前に現れた単細胞生物から進化して我々は誕生したという主張がある。
一方、創造論者の最大の動機には、神により我々は誕生したという主張がある。

生物の進化か?設計者(神)による創造か?

進化論(ダーウィニズム)には、「偶然による突然変異」と「適者生存の必然による自然選択(淘汰)」がある。
創造論者がこのような話を聞きつけると「偶然の誕生や進化はない」と即座に「神による(必然の)創造だ」と反論する。

突然変異も荒唐無稽だが、聖書を根拠に6日で一挙に神が創造したという主張も負けてない。

さて、生物の本質は変わらないことにある。
そのため生物にとって種内変異を超えた変化は異常であり、ただの奇形として排除される運命にある。
この奇形を排除して、
種を守ろうとすることを負の自然選択といい、
種を超えて進化させようとすることを正の自然選択というそうだ。
実際には後者は幻想に過ぎなかったことが集団遺伝学者の故木村資生(もとお)氏によって証明済だ。

さらに、進化論の「適者生存の必然による自然選択」も全くの説得力を持たなくなった。
その実例は無数にあるが、わたしが丁度夏休みに家族と上野科学博物館で『生命大躍進』を見に行ったことから例を挙げれば、デボン紀後期の3億6500万年前のアカントステガという両生類の肢と人間の手の骨格が似ているというのがある。
両生類だから肢として機能していても何の不思議でもないと思ってしまいそうだが、実はアカントステガは陸には上がれない、肢が使えない最古に近い両生類のようだ。ちなみに諸説色々だが最初に陸に這い上がって四肢歩行したのがイクチオステガと言われている。
肢としてまだ機能もしていない骨格から人間の手の原型が現れたことをみても、そこに自然選択の働く余地はなく、要不要で環境に適応するために進化したとは言えないことが「進化発生生物学(エボデボ革命)」によって証明されている。

こうなると現象のみで見れば必然の進化ではなく、ただの偶然の変化と見た方が良さそうだ。

しかし、これらが証明されたとしても進化論者の考えは変わらない。

それは、以下のような創造論の問題点も大きいからだ。

神は全知全能の支配者なのだからいちいち物理法則ごときに縛られては神の権威に関わるとして、万能の神だと言って顔パスよろしく科学にズカズカ上り込み、説明困難なことは全て「これは神の御業です」と安易に片付けてしまう。
この科学的思考を無視し、神によって全ての未来をも決定できるという強硬な態度が、進化論との和解を不可能にしてしまった元凶とも言える。

さらに、中世教会は、信者の救済はそっちのけで、信者を管理・支配するために教会の権威を絶対視させることに心血を注いだ。
その結果、歪んだ神観として「神とイエスの偶像崇拝」の権威を確立することとなった。

教会側は、盲目的に従って天国行くか、背いて異端となり地獄に行くかを「自由に」選ばせたという。
しかし、これは頭に銃口を突き付けて「おとなしく金を出して助かるか、逆らって死にたいか自由に選ばしてやる」というのによく似ている。
なのでこれは、ただの脅迫であり、自由とはいえない。

結局、信者の顔から笑顔が消え、報酬を必要としない純粋で喜びに満ちた自発的な善行も消え失せた。
かくしてただ従うだけの信者の顔から笑顔が消え、天国生きのチケットという報酬だけがギリギリの心の支えとなった。

この封建的かつ支配被支配の階層性組織の教会に反発して誕生したのが無神論者であり、さらにそこから共産主義思想へと変容を遂げた。

結局、創造論は権威ある万能の神を、進化論は自然選択・自然法則の科学万能主義を神に変わる権威とした。
かくして双方が権威主義的体質を内包した歪んだ神観を持つことになった。

繰り返すが、進化論は科学ではなく、中世の人間救済より教会権威の神観に反旗を翻した違った形の神観であり、キリスト教に対する仕返しのような信仰に他ならない。

何でもそうだが利害を優先すると本質まで歪んでしまうのは誠に残念だ。

人の目、殊に影響力の強い者が目先の利益に眩み、信条を破ってしまうと悲しいことに神ご自身まで歪んで見え、且つそのことに疑問を持つこともなく、そのまま周囲へ拡散させてしまう。

このように、創造論と進化論はそれぞれ神と科学の呼称の違いはあれど、双方に絶対的な権限と権威を持たせることにより、創造論者は進んで神の奴隷となり、進化論者は「人は猿から進化した」と言ってこちらも進んで猿を先祖に祀った。

さらに、いま進化論の発想の流れとして以下のことを危惧する。

精神や心は脳の働き→なので精神は物質から作れる→人工知能開発→人工知能は人間をアシストし快適な生活に欠かせない存在→さらに人工知能の技術向上させアシスト以上の存在にさせる・・・

現実として、ソフトバンクのpepperが人間とコミュニケーションを交わせたり、コンピュータが将棋のプロ棋士に勝ったり、アイフォンの音声アシスタントのsiriが人間に変わって操作をしてくれたりするのは、ぎこちなさや見た目にも癒されて可愛げがある。

さらに、実生活の中にも、歩行アシスト、義手・義足もかなり本物らしく繊細な動きになったし、その他重い積荷をアシストするなど我々の実生活にロボットは欠かせない存在となっている。

果たして、人工知能はどこまで延びるのか?延ばして良いのか?

人間の特徴は、間違える、忘れる、不正を犯す、意欲(モチベーション)により処理速度が変動する。
しかし、コンピュータは故障しない限り、間違えない、忘れない、不正という概念を持たずプログラム通り処理する、(意欲は無いが)処理速度は一定である。

これだけみると、近い将来人間は、誰を信頼し、誰に権利を与え、誰に権威を持たせたがるだろう?

科学的な判断や決定、ここで言えば人工知能に対する浸透と信頼が着実に高まっていると言えないか?

創造論と重ねて考えれば、まさに人間の未来は、神により、科学により決定されると言わんばかりである。

近未来では、コンピュータが人間以上の知性を持ち、予測可能なのだから、人間はただ人工知能の決定する計画通りに行動することを義務付けられるてしまうような、まるでどこかのSF映画の世界が実現すると信じてしまっても無理はない。

しかし、このような科学的決定に対する信頼が高まれば高まるほど、人間の出す判断や決定を軽視、黙殺されるのは当然の流れとなるだろう。

さらに人工知能開発が特定の企業ないし政府に独占されてしまえば、人類の支配を目論む無法者が絶対に出現しないと誰が断言できよう。
となると、正しい神観の確立が必須かつ急務となるはずだ。

人間は失敗も多いが、自由に考え、選択し、行動する。
人間以外の生物には、生き方に関わるような倫理的自由がないため疑問を持たなければ、失敗もない。

人間には、倫理的自由が与えられており、その自由の前には神もサタンも人間の決定には手を出せない。

自由により人間は、神と人格的交流が可能であり、且つ他のすべての万物万象世界に対する主導権を得た。
権利が与えられるとは、そこには必ず果たすべき義務責任が伴うため、勝手気ままというのとは別物だ。

現象だけ見ては進化か、変化かに注目しやすいが、「設計者(神)による段階的展開」となれば、そこに動機や意図を求めやすくなる。

先に直感的に答えが与えられ、その検証を研究し真理を解き明かすようなことを「真理の超越性」というが、宇宙の誕生にもこれが当てはまるのだと信じている。

これこそ、なぜ宇宙が存在していることに相応しく、我々が美しい水の惑星に住み、人間だけが今に満足せず生きる意味を探し、そして第一原因、第一存在を認識したい心に溢れている等々に対して、感動的で魅力ある直感からくる回答を見つけ、それを心を躍らせながら検証することができるならば、どんなに研究が楽しくあり捗るだろう。

実際、検証しなくては、鑑定しなくては信じられないなんていうことは、人生でそう多くはない。
そこに直感や実感が先にあって、検証をする必要を感じていないからではないか。

こう考えれば、人間は内的な、精神的な、言うなれば霊的なものを主軸にして生きている。

人間はサルからの進化だ、全ては偶然の産物だ・・・ではそれを検証する意欲どころか、生きる意欲も失いそうだ。
そこには、何の感動も魅力もない、直観として拒絶している。

「設計者(神)による段階的展開」

設計者の動機と意図を純真に真摯に尋ね求め、心静かに直感を得ようではないか。


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2015年09月20日

夫婦の愛を水平に

言わずもがな、親は子供を愛したいと思っており、子供は親から愛を受けたいと思っている。

しかし、実際に父親や母親が子供を愛した(と思っている)行為が、子供には不安や緊張、または心配として伝わるケースもままある。

それは、親である父と母が対立し、お互いに葛藤し、いがみ合っているケースだ。

自立前の子供にとって親は自分の生き死に関わる絶対的な存在である。
そんな存在である父と母の間に流れる不穏な空気を感じ取ることなど子供にとって造作もないだろう。

ですから対立した状態のまま父は父なりに、母は母なりに子供を愛する(と錯覚している)行為は、子供にしてみれば親のケンカに突如引き入れられることになり・・・

母からプレゼントを貰おうものなら、父が葛藤し、
父と食事にでも出かけようものなら、母が嫉妬する。

このそれぞれの突き刺すような視線を感じつつ「受け入れることも、拒否することもできない」究極の選択を迫られるというおぞましい苦しみを味わうことになる。

くわばらくわばら・・・

家族は夫婦から始まる。
家族が増えても家庭の中心は夫婦である。
だからこそ、夫は妻に対し、妻は夫に対しへつらうことも蔑(さげす)むことも無く信頼し尊敬することが肝要であり、その夫婦の位置関係は水平とも言える。

そして、愛は直短距離の垂直に降りてくるのなら、水平であれば子供は親からの愛情をふんだんに受けることができる。
しかし、上述のような対立している状態は傾いでいるため、愛情(らしきもの)が斜めに流れているようなものだ。

ここで明言するが対立している夫婦の双方からの子供への行為は、愛ではない。

夫であれば、妻への腹いせだったり、自分への気晴らし・・・
妻であれば、夫へのあて付けだったり、自分への励まし・慰め・・・

そんなものを、受けて育った子供が健全に育つはずがない。

まずは、夫婦が信頼と尊敬を取り戻すことが先決だ。
それを、なおざりにして子供に向かうのは不健全極まりない。

自戒の念を込めてここに記す。
皆様のご意見もお待ちしております。

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2015年08月07日

「ぼんやりとした不安」に思う

生まれることは生まれましたが、「私」が生まれようとして生まれたのではなく、生きていることは生きていますが、「私」が生きようとして生きているのではなく、死ぬことは死にますが、「私」が死のうとして死ぬのではないのです。それなのに、自分の何を誇るのでしょうか。自分自身が生まれたくて生まれることもできず、何をもって生きることもできず、死の道を避けることもできない自分を誇ってみても、哀れで寂しいだけです。生まれたので生きなければならない運命であり、またそのように生きて逝くべき運命なのです。
天聖経/第四編/第四章/第一節より


事実生まれたいと思ったから生まれたのではなく、死にたくないと思っても死を回避できない「私」を改めてここに考えてみる。

真っ先に思い浮かんだのは、芥川龍之介最晩年の代表作『河童』(1927年2月発表)である。

御存じない方には、その前後を読まないと要領を得ないかも知れないが、先の天聖経の内容と対比すると思った部分を以下に抜粋する。


河童もお産をする時には我々人間と同じことです。やはり医者や産婆などの助けを借りてお産をするのです。けれどもお産をするとなると、父親は電話でもかけるやうに母親の生殖器に口をつけ、「お前はこの世界へ生れて来るかどうか、よく考へた上で返事をしろ。」と大きな声で尋ねるのです。バツグもやはり膝をつきながら、何度も繰り返してかう言ひました。それからテエブルの上にあつた消毒用の水薬で嗽(うが)ひをしました。すると細君の腹の中の子は多少気兼でもしてゐると見え、かう小声に返事をしました。
「僕は生れたくはありません。第一僕のお父さんの遺伝は精神病だけでも大へんです。その上僕は河童的存在を悪いと信じてゐますから。」
 バツグはこの返事を聞いた時、てれたやうに頭を掻いてゐました。が、そこにゐ合せた産婆は忽ち細君の生殖器へ太い硝子の管を突きこみ、何か液体を注射しました。すると細君はほつとしたやうに太い息を洩らしました。同時に又今まで大きかつた腹は水素瓦斯を抜いた風船のやうにへたへたと縮んでしまひました。


この頃の芥川が精神衰弱でなければ作品全体はファンタジーとして、又は世間に対する風刺や問題提起としても読めるのだが、やはり私は芥川自身がこの河童の胎児に自分を重ねさせ、生まれたいか否かの意志を確認させたことに非常にインパクトを受けた。
芥川は、「河童」を発表した年の7月27日(命日は「河童忌」と称されている)に服毒自殺を遂げている。
自殺の理由を「唯ぼんやりとした不安」と記したそうだ。


確かに人間にとって最も「ぼんやりとした」ものは、気付いたら生まれ、知らぬ間に死んでいたことなのかも知れない。
私自身も祖父母の葬式に参加した7歳ぐらいから、なぜ生んでおきながら、いつか死んでしまうのだろう。たった一度きりの人生ならばなぜ過去でも未来でもなく、今生まれたのだろう。今の家族をどんなに愛してもいつか順番に死んでしまうなんて辛すぎる。人生にとって死が悲しみなら、生きるとは一刻一刻確実に悲しみに向かうものじゃないか・・・・。
などと、数えきれないほど夜中に声を殺して泣いたことを懐かしく覚えている。
恐らく人生にとって一番大事な出生と死に対して、人間は一切関与できないことへの不安と恐怖があったのだろう。


厭世的になった人間にしてみれば、この河童の胎児の生まれることを望むか否かの選択権を羨ましく思うのかも知れない。
しかし、その選択権を持った瞬間に、喪失するものがあるはずだ。
1から100まで自分で管理する人生であるとは、つまり私自身には一つも「ぼんやりとした」部分はない。自分で選択し生まれ、決めたように死ぬだけだ。
人生の一番大切な出生と死を誰にも関与させないことは、人生の大切な部分が欠いていることにならないのか。
果たしてそれが、羨ましい人生と言えるのだろうか。

芥川は「ぼんやりとした」ものへのただならぬ不安や恐怖があったのだろう。それは、私も含め感覚の差こそあれ多くの人間の共通することだろう。

しかし、その「ぼんやりとした」部分にこそ、生まれた動機が自分で「生きた」ことではなく、「生かされた」ことになる。それはつまり、愛されて生まれたという人生の太い背骨になるのだ。

それさえあれば、天聖経にあるように迷うことなく

「生まれたので生きなければならない運命であり、またそのように生きて逝くべき運命なのです。」

という運命に身を委ねて(時に迷えど)生きて逝けそうです。


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