2015年05月26日

良心の呵責(下)

続きです。

人は自分が正しいと感じていることの意に反した動機や行動、そしてその結果に対して人に見つかってないことでさえ苦痛を感じるようになっているではないか。ということは、たとえ欲しい結果や成果だけを手に入れたとしても、良心の呵責を感じたままでは、幸せを感じないのだ。

つまり、今の人類は良心の感知センサーなるものの感度が悪くなっただけであり、本来良心という製品はより善なる方へ善なる方へという一つの目的をもって製造されたことになる。
結局、邪悪な方向に引き入れる邪心なるものは、良心が故障したことによって後天的に生じた誤作動のようなものだ。なので、目的に合わない悪の結果に対して後悔するのだ。

事実、良心の呵責という言葉はあるが、邪心の呵責という言葉は無い。
悪事をする時・した後に自分の中、もしくは他人に言い訳をするのは、少しでも自分を悪く思いたくないからだ。だから、善なることをする時、した後に、謙遜はしても言い訳をする気にならない。人は自分が真っ当なことをしていると思っていれば言い訳などしない。

今日も良心は誤動作をしたとしても、一つの良心の目的に従いより善なる方向にひたむきに進もうとしているのだ。

きっと、日々良心の主体に尋ね、良心の感覚を磨き、良心に従うように努めることで、良心の感度も修復改善され、逆に良心に逆らうことで鈍くなるのだと信じている。

私の祖母が言っていた言葉を思い出す。
「人が見ている、見ていないによって態度を変える浅ましい人間になるなよ、いつもお天道様が見ているのだから」。

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posted by 桃缶 at 12:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月22日

良心の呵責(上)

今回のテーマによって性善説の一助になれば望外の幸せだ。

良心の呵責の同義語には、罪の意識や自責の念や後ろめたい気持ちなどがある。

この罪の意識や罪悪感などの「罪」の種類には、実際の犯罪はもとより、「自分で自分が許せない」といった法には抵触しないもの、さらに言えば行動すらしていない心の動きまでも含まれる。
つまり、良心の呵責を感じたか否かのジャッジはどこまでも自分次第、それこそ良心という訳だ。

ジャッジが自分に委ねられている以上、そのジャッジの良心ゾーンも千差万別ということになる。
あえて極端な例を挙げれば、強盗殺人などの凶悪犯罪者と一瞬の殺意を感じた者の罪意識を、単純に事の大小で判別できない。

ここに罪の許し・贖罪の難しさがあるのではないか。

ある囚人が服役することによって、本当に悔悟の情によって更生したとは言い切れない。
さらに言ってしまえば、囚人が天地神明に誓って悔悟の情をもったとしても、それで清々しく人生を再出発することに違和感がある。
何故ならその囚人の犯した罪が殺人であれば、最低でも遺族が許すと言ってくれるまでは、出所後であっても遺族の感情と無関係に勝手に許されてはいけないからだ。

神仏を信じる者が犯罪に手を染めることも決して珍しくないが、その場合は神仏による許しも必要になるはずだ。しかし、神仏に対しても同様に自分次第のジャッジが付きまとうためこれもなかなか厄介だろう。ここも慎重に扱わないといともたやすく神仏に許されてしまう輩も古今東西あとを絶たない。

以前許しについて長く書いたことがあるが、許す側に許す権利があり、許される側は勝手に許されてはいけないのが基本だろう。但し、凶悪犯罪などは別として、日常生活の関係で許さないと言い張ってばかりいると、「相手だけが悪く、自分は一つも間違っていない」という心が膨れ上がるばかりだし、特にその関係が夫婦や親子などなら、百害あって一利なしだ。

いつの間にか許しの話しになってしまったが、私自身の許しの見解を明確にしないと良心の呵責についてもピントが合わないため、ご了承願いたい。

また良心の呵責を本音と建前という視点で言えば、良心はどこまでも本音に該当し、偽らざる正直な気持ちだ。
ここで「偽らざる正直な」と表現したが、あくまでも自分に正直な気持ちであって、中には周囲から共感してもらえない正直さだってある。
結局、「偽らざる正直な」ということも、前述した自分次第のジャッジということになる。


さてこんな展開をすると良心の呵責など何の役にも立たない、いい加減なものと思いたくなるが、実はそうではない。
何故なら・・・・

結論は次回。


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posted by 桃缶 at 13:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 家庭・日常 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月18日

卒園と卒所と私の心

来週保育園の卒園式を控えている息子が、いよいよ今春から小学校に入学だ。
彼の心は、未来の環境への期待と希望に満ちており、過ぎゆく環境には(卒園式の雰囲気でどうなるか知らないが)今のところ未練も悲壮感の類はみじんも無さそうだ。

その一方で、毎朝彼を保育園まで送って行った私は、と言えば恐らく大多数の親の例にもれず、成長したわが子への喜びの心と同時に、今までの息子との楽しい朝の日課があと数日で無情にも絶たれてしまう(ちょっとオーバーか)というノスタルジックな心が交錯している。

さらに女々しさついでに(そんなついでがあるかよたらーっ(汗))一気さらけ出して言ってしまえば、小学校3年生の娘も入学からお世話になっていた学童保育を今春で卒所するのだが、どうやらそれも息子のそれと相関していて私の心を湿っぽくさせていることを正直に告白する。

息子曰く「ぼく、いっぱいべんきょうして100てんとるんだ」
娘曰く「学校終わったら家にまっすぐ帰れるのが楽しみ、それから夏休みも、冬休みも毎日学校に行っていたから長い休みも楽しみ」

先日、学童を卒所する娘と一緒にお風呂に入りながら
「たった3年前に入学したばかりなのに、もう学童が要らなくなるまで大きくなったんだね」と娘に言ったら
「え!?たった3年じゃないよ!」と怪訝な顔で返された。

確かにそうだ。
先月44歳になった私には、3年はほんの一部分であっても、
同じく先月9歳になったばかりの娘には、3年間は決して短くはないのだから、
「たった3年じゃないよ!」と言われるのは当然だ。

大人も子供も同じ時間に生きてはいるが、子どもの時間は一瞬一瞬一日一日が長く大きく深いものだし、それに伴って成長も変化も早いものだ。

この間できなかったことが今日できている。
この間届かなかったところに手が届いている。
この間までお世話になっていたところを今日から行かなくなった。

こんなことの連続の中で、大人になるのだから
妻と括目して子ども達を見守ろうじゃないか。

そして、自分たちも成長する努力をしていこう。



posted by 桃缶 at 16:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 家庭・日常 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする