2013年08月06日

夢中は、生きる糧、生きる力

制止されても、叱られても寝る直前まで遊び続ける子どもたちに、毎日てこずりながらも心のどこかで、時間も忘れて夢中になっている姿に感服している。

恐らくそれは・・・・・。
隣近所や確実に我が家の翌日に響くという現実をまったく度外視して言えば、「夢中になれるうちはとことん夢中になっていればいい」という、本当の私の気持ちが裏にあるからだろう。

もちろん親としての欲を言えば、少しは将来に何か身になりそうなことに夢中になってくれると、なお有り難いという思いが湧かなくもない。
しかし、今の段階で(たとえしょうもないことに夢中になっているとしかみえなかったとしても)それが将来に役立たないとは言い切れない。

意外に「瓢箪から駒」のように、しょうもないことから、何かが生まれるかもしれないし、または、精神面に影響を与えて、そこから根拠もない自信や忍耐心や達成感、はたまた閃きや想像力が生まれないとも言えない。
さらに百歩譲って、その夢中の状態から何も生まれなくても、子どもが夢中になり、調子に乗ることを、常識の許す範囲内で、できる限りその状態の保護をしてあげるのも親の役目のようにも感じている。
なぜかと言えば、その夢中になった体験が、生きる心の強さにつながると信じているからだ。

ちょっと夢も希望もない表現になるが、そもそも時間も忘れて夢中になれる時間というのは、人生の中でそうそう多くはないのではないだろうか。夢中に質を求めても全く意味がないとも思っている。

確信しているのは、夢中になっている瞬間こそ人生の極みであり、最高の瞬間だということだ。
だから、幼すぎるとか、歳を取りすぎたとかは、一切関係ない。
もちろん実際は、理性の自我状態が未発達であり、且つ自由奔放な子どもの自我状態が解放されている幼少期が「時間を忘れて」「周囲も気にせず」夢中になりやすいのもまた事実である。
ですから、理性が育った分だけ、常識を身にまとうこととを獲得し、自由奔放さを喪失する。

「夢中になってやろう」とか言われて、夢中になれる人は皆無だ。
考えて夢中になどならない、気付いたら、いや気付いた頃には、すでに夢中の状態が解かれている。

能力や技能を身につけることはとても大切だ。
しかしそれらは、沈着冷静であっても身につくものだ。

もし人生の極みが夢中の状態だと仮定すると、スキルアップとは夢中になるための舞台準備に該当し、その沈着冷静に高めたスキルによって掴み取った環境こそ、思う存分に夢中になれる晴れの舞台ともいえるだろう。

スキルは大切だ。それを発揮する可能性を広げるからだ。
但し、スキルがあれば、自信があるとも言えない。
子どもたちは、根拠がないのに自信に満ちている。

やはり生きていくには、心の強さはもっと大切だ。


息子「○○君といっしょに寝たい人〜!」
その他家族「は〜い」
みんな自分といっしょに寝たいものだと確信して毎日聞いてくる。
息子「だれにしようかな・・・・じゃ〜パパ!」

子どもから、得られるものは多いものだ。
熱く、そして賢く生きよう。


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posted by 桃缶 at 10:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 家庭・日常 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月17日

関係性の根本解決とは?

希望通りに入社したにもかかわらず、退職する理由として、たとえ仕事内容が気に入っていても、上司や同僚との関係を苦にしていることがベスト3位以内に入ります。

人間関係の円滑さは、親密な関係と言えます。
その親密な人間関係を築く上の大前提として、「自分は自分」という自己肯定感が必要です。

その「自分は自分」とは、どういう意味か?

自己肯定感のある人は、親密な関係を相手に求めた時に、たとえ相手がそれを拒否しても別段相手を恨むことなく距離がおけます。
また、自己肯定感のある人は、上下関係のない対等な人間関係を結べる人でもあります。

ここで言う「自分は自分」とは、互いに自律した関係であり、相手のこころのお世話や、問題によって引き合っていない、寄り掛かっていない関係です。もちろん弱みなど握られていない関係です。

もし、あなたが相手の問題に必要以上に介入したくなったり、あなたの手助けが必要のない自律している人と一緒にいるとなんだか落ち着かないという経験がおありでしたら、それは親密な関係を築いているとは言えません。

その状態は心理学でいうと、適切な高さで自己を評価できない「自己愛の障害」、そして相手の世話を焼いたり、相手に頼りにされることで自分の存在を認めさせようとする「否定的コントロール」の症状行動の可能性があります。

そのような状態にある方を「共依存症者」と言います。

もし、あなたがその症状に合致していても気落ちしないで下さい。

なぜなら、この症状は、「生きにくさ」であって、病気ではないからです。
そして、きちんと解決する方法もあります。


次に、もうひとつ、「否定的コントロール」についてお話します。
あなたがもし自己肯定感の低いままであれば、相手からこころを傷つけられることを恐れ、傷つけられないためにとる行動とは何だと思いますか?

そのひとつに、決してあなたのプライドを傷つける恐れのないペットなどの存在を自分の傍に置くというのがあります。

時折、猫や犬を何十匹も飼っているニュースを耳にします。
それは、もしかしたら動植物を愛しているというよりは、動植物によって癒しを受け、愛されているケースが多いかもしれません。

本来、人間は動植物を愛で持って管理する主体の立場です。
「この子だけは私の味方」「この子ったら私がいないとダメなのよ」・・・・・。
対等な人間関係を築けないと、動植物との関係のみで自己のプライドを守ろうとします。


イエス様は、「わたしと父とは一つである」。ヨハネ10:30と仰いました。

動植物のこじれは、人間関係にあるようですが、その根本の関係のこじれは、どうやら
神様との関係にあるようです。

神様との関係の回復こそ、全ての関係の改善回復になるとイエス様が示唆しているように感じます。




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posted by 桃缶 at 17:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月09日

感謝と満足

愛する子どもが父母の前で死んで行くとすれば、誰が不憫でしょうか。

もちろん、父母よりも先に死んでしまう子どもは不憫ですが、その子どもを見つめる父母はもっと不憫です。

けれども、死に直面している子どもが、
現実に押し潰されそうな状態の中にあったとしても、
自分以上に自分が死んだことに悲しみと苦痛を感じる父母がいることを知って、
何らかの形で父母を慰労するメッセージを残そうとしたとするならば・・・・・・。


その子どもの行為は、結果的に父母と子どもの両方を慰労するのだと思います。


父母と共にあった人生が、
父母の子どもとして生きたことが、
最高の喜びであり、感謝だったことを回想する中で

子どもの心の中にあった不安や恐れは、いつしか慰労され愛情へと変わり・・・・・・。


底の見えない悲しみの沼地に沈みゆく悲惨な父母の心は、
子どもの労わりのメッセージによって、
父母へ希望と慰労のロープを投じます。


全てを感謝し、満足する心は、悪魔サタンとて断ち切られるのだと信じます。




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posted by 桃缶 at 09:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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