恐らくそれは・・・・・。
隣近所や確実に我が家の翌日に響くという現実をまったく度外視して言えば、「夢中になれるうちはとことん夢中になっていればいい」という、本当の私の気持ちが裏にあるからだろう。
もちろん親としての欲を言えば、少しは将来に何か身になりそうなことに夢中になってくれると、なお有り難いという思いが湧かなくもない。
しかし、今の段階で(たとえしょうもないことに夢中になっているとしかみえなかったとしても)それが将来に役立たないとは言い切れない。
意外に「瓢箪から駒」のように、しょうもないことから、何かが生まれるかもしれないし、または、精神面に影響を与えて、そこから根拠もない自信や忍耐心や達成感、はたまた閃きや想像力が生まれないとも言えない。
さらに百歩譲って、その夢中の状態から何も生まれなくても、子どもが夢中になり、調子に乗ることを、常識の許す範囲内で、できる限りその状態の保護をしてあげるのも親の役目のようにも感じている。
なぜかと言えば、その夢中になった体験が、生きる心の強さにつながると信じているからだ。
ちょっと夢も希望もない表現になるが、そもそも時間も忘れて夢中になれる時間というのは、人生の中でそうそう多くはないのではないだろうか。夢中に質を求めても全く意味がないとも思っている。
確信しているのは、夢中になっている瞬間こそ人生の極みであり、最高の瞬間だということだ。
だから、幼すぎるとか、歳を取りすぎたとかは、一切関係ない。
もちろん実際は、理性の自我状態が未発達であり、且つ自由奔放な子どもの自我状態が解放されている幼少期が「時間を忘れて」「周囲も気にせず」夢中になりやすいのもまた事実である。
ですから、理性が育った分だけ、常識を身にまとうこととを獲得し、自由奔放さを喪失する。
「夢中になってやろう」とか言われて、夢中になれる人は皆無だ。
考えて夢中になどならない、気付いたら、いや気付いた頃には、すでに夢中の状態が解かれている。
能力や技能を身につけることはとても大切だ。
しかしそれらは、沈着冷静であっても身につくものだ。
もし人生の極みが夢中の状態だと仮定すると、スキルアップとは夢中になるための舞台準備に該当し、その沈着冷静に高めたスキルによって掴み取った環境こそ、思う存分に夢中になれる晴れの舞台ともいえるだろう。
スキルは大切だ。それを発揮する可能性を広げるからだ。
但し、スキルがあれば、自信があるとも言えない。
子どもたちは、根拠がないのに自信に満ちている。
やはり生きていくには、心の強さはもっと大切だ。
息子「○○君といっしょに寝たい人〜!」
その他家族「は〜い」
みんな自分といっしょに寝たいものだと確信して毎日聞いてくる。
息子「だれにしようかな・・・・じゃ〜パパ!」
子どもから、得られるものは多いものだ。
熱く、そして賢く生きよう。
・・・・◆・・・・・◆・・・・・◆・・・・・◆・・・・・◆・・・・
ご覧頂き感謝です。
宜しければ


にほんブログ村
・・・・◆・・・・・◆・・・・・◆・・・・・◆・・・・・◆・・・・
【関連する記事】